立法、行政と並んで国民による不断のチェックが欠かせない司法の可視化が進まない。捜査段階の取り調べの「録音・録画」が義務付けられた事件は、全体の3%。日本国憲法は「裁判の公開」を掲げるが、刑事も民事も裁判記録の閲覧はプライバシー保護などを理由にハードルは高まるばかりだ。情報開示度が下がる日本の司法。その実態を追った。
「黙ってても何にも前に進まんぞ」「本当のことを言ったら周りの評判が下がると思っているんじゃないのか」-。熊本地震から1カ月後の2016年5月、熊本東署の取調室。警察官は繰り返し、熊本市の少年=当時(19)=に自白を迫った。 少年は、熊本市の避難所で女児=同(11)=にわいせつな動画を見せた県少年保護育成条例違反の容疑で逮捕された。女児と面識はあったが、動画を見せた記憶は一切ない。「やってません」。身の潔白を訴えたが信じてもらえなかった。 逮捕から2日後。容疑者の権利を守るため県弁護士会が派遣する「当番弁護士」として署に赴いた松本卓也弁護士は、少年に数十ページの冊子を差し入れた。「取り調べの様子を毎日書いて」。表題には「被疑者ノート」とあった。
少年は、留置場でその日の警察官とのやりとりを克明に書き留めた。「どんどん不利になっている」「弁護士に相談してるんだろ」-。ノートには、さまざまな角度から揺さぶりをかける警察官の言葉が残されていた。12日間に及んだ身柄拘束。少年は否認を続けて釈放され、熊本家裁に送致された。 5カ月後、家裁は「目撃証言の信用性に疑いがあり、非行事実を裏付ける客観的な証拠がない」として刑事事件の無罪に当たる「不処分」と判断した。少年は違法な取り調べで精神的苦痛を受けたとして提訴。熊本地裁は21年3月、少年によるノートの記載は信用性が高く、県警の取り調べの一部は、黙秘権や弁護士と接見する権利の侵害で「違法」と断じた。 弁護士が立ち会える米国やフランスなどと異なり、日本の取り調べは長年、「密室で自白強要の温床」と批判されてきた。容疑者の“完落ち”(自白)は「捜査員にとって最も重要な仕事」と明かす県警幹部もいる。勾留された容疑者は「証拠隠滅の恐れ」などの理由で、弁護人以外との接触が禁じられることが少なくない。社会と隔絶されて精神的に追い込まれた状況は、時に捜査当局に迎合した虚偽の自白を生む。
捜査員が脅したり、『証拠がそろっている』とうそをついたり…。裁判で違法とされた取り調べは、挙げればきりがない」と松本弁護士。人吉市の一家4人殺傷事件で死刑囚として30年以上の獄中生活を余儀なくされた免田栄さん(故人)が、アリバイを認められて再審無罪となったのは1983年。以降も、自白に依拠した有罪が覆る冤罪[えんざい]は後を絶たない。 そんな状況を打開しようと大阪弁護士会が2003年、逮捕直後の容疑者にノートの差し入れを始めた。不当な取り調べがなかったか、項目ごとにチェックする欄があり、具体的な内容も書き込める。供述調書への署名押印を拒めることなど、容疑者の権利の説明も盛り込んだ。 取り組みは全国に広がり、県内でも否認事件などで積極活用されている。発案から携わった秋田真志弁護士(大阪)は強調する。「密室の取り調べを“可視化”する狙いで、大きな成果があった。ただ限界もある。録音・録画の全件導入はもちろん、日本も弁護士の立ち会いを認めるようにすべきだ」
容疑者の取り調べで、警察が「録音・録画」導入にかじを切るきっかけの一つとなった冤罪[えんざい]がある。2003年4月の鹿児島県議選を巡り公選法違反の罪に問われた裁判で、公判中に死亡した1人を除く12人全員の無罪が07年3月に確定した「志布志事件」だ。 「否認しているのに、取調室の窓から外に向かって『私がやりました』と叫ばせる」「否認する男性を家族が諭す言葉として『早く正直なじいちゃんになって』と書かれた紙を無理やり踏まされた」-。人格を否定する暴言や強要といった警察の違法な取り調べが、次々と明るみに出た。 起訴された人のうち6人は虚偽の自白を強いられ、裁判で否認に転じた。志布志事件の国家賠償請求訴訟で弁護団事務局長を務めた野平康博弁護士(鹿児島)は「密室で第三者の目が届かないと、たかをくくっていたのだろう」と振り返る。 国民が審理に加わる裁判員裁判の導入を見据え、検察は06年、取り調べの一部に録音・録画を導入した。裁判で「任意の自白か」が争いになる事件を減らす狙いだったが、警察は「捜査への支障」を理由に慎重な姿勢を崩さなかった。
しかし、07年には、富山県氷見市の女性暴行事件で警察に自白を強要された男性が服役後、別に真犯人がいたことが判明。相次ぐ冤罪に、自民、公明の与党は再発防止策の一つとして警察段階の録音・録画を提言し、警察庁も受け入れた。殺人をはじめとした裁判員裁判の対象と検察の独自捜査で全過程の録音・録画を義務付ける改正刑事訴訟法も、19年に施行された。 録音・録画の普及は検察で顕著だ。義務化の対象ではない事件にも定着し、勾留された全ての容疑者に占める実施割合(一部含む)は、最高検の集計で15年度の50・2%から20年度は93・7%に達した。熊本地検の松永拓也次席検事は「自白の任意性を積極的に立証しようという考えが念頭にある」と話す。 ただ、警察は事情が異なる。日弁連は1月に出した意見書で、全逮捕者に占める実施割合は15年度が3・3%、20年度は11・5%にとどまると指摘し、「義務化対象以外は極めて消極的」と批判する。
熊本県警をみると、19~21年に取り調べの全過程で録音・録画を実施したのは211件。刑法犯の逮捕者に占める割合は13・1%だった。刑事企画課の清田恭弘次席は「義務化対象の事件を中心に適正に実施している」と強調するが、ある捜査幹部は「取り調べは容疑者と人間関係をつくり、自身に不利なことを話させる場。カメラの前では難しい」と明かす。 改正刑訴法は6月に施行3年が経過。付則に定められた見直し時期を迎えた。日弁連は、録音・録画の義務化について「刑事司法改革の歴史的な一歩を踏み出した」と評価する一方、対象が全体の3%に過ぎないとして、任意捜査や参考人聴取を含む警察・検察の全ての取り調べに拡大するよう求める。 野平弁護士は「志布志事件がそうだったように、違法な取り調べは任意捜査の段階でも起きる。冤罪をなくすためには、さらに踏み込んだ可視化が必要だ」と指摘する。